本心へと続く道

I.R.Mの受講を通して得た気づきを幸田先生の教えとともに振り返ります。
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いつの間にか減った「可哀想な私」の出番

こんばんわ まーるです。

3月いっぱいで終わったはずのこのブログ、思いがけずリンクからはずさず残していただいておりました。

それはともかく、終了のはずが「不定期更新」になったのは正直予想外。

受講前の私なら、「終わりって言ったのにぃなんで?」となったでしょう。

でも意外なことに、わりと自然に受け入れていました。

「これも私が無意識に発したエネルギーに対して起きてきたのかな」と。

これも含め、私自身、少し変化してるかも・・と思うところがあり、久しぶりに書いてみたくなりました。

いつか、こういう日が来ることがわかっていたのかな。

4ヶ月半ぶりの更新となってしまいました。

少しだけ、お付き合いください



現実を創造している自覚をもつ


「妄想癖がありますよね」

受講前に受けた初めての個人セッションで、先生に言われたことです。

私は空想や想像と一緒くたにして、深く考えず「そうなんです〜」なんてヘラヘラ答えたように思います。

子供のころは本当に空想ばかりしてたんですヨ。

たとえば「影の軍団」という時代劇がそれはもう大好きだった私は、あのテーマ曲をバックに、忍者として服部半蔵とともにどれだけ走ったことでしょう・・

かと思えば、どこか遠く美しい星に住んだり銀河を見下ろしたり。

あ〜恥ずかしい・・でもちょっと懐かしい^^;

そういう夢見る夢子ちゃんな絵空事ですね。

想像もわりと現実的なものとして、きっと誰でもすると思いますが、そういうものと一緒に考えていたわけです。

そう、あの時はこの言葉をまったく思い浮かべられませんでした。


「被害妄想」


医学的に・・というのではなくて、必要以上に考えすぎたり、疑ってかかったりして、心が不安定な状態であれこれ思いめぐらしてしまう、といった感じでしょうか。


この初個人セッションではとても緊張し、打ちのめされてしまいました。

そして浜に打ち上げられたヘロヘロなコンブみたいになって帰路についたわけですが・・。

ここから私の妄想が始まるわけです。

「変なのが来たとか思ってないかな?」
「でも受けなかったらHさん(私を誘ってくれた方です)に悪いじゃん」
「かえってHさんが先生に変なふうに思われたらどうしよう」
「私だって“好きで”受けたわけじゃないし、もうしょーがないよ」
「でもさ、先生が自己観察は向いてるって言ってくれたよね・・」
「誰にでも言うんだろうな。実際はあきれてるに決まってる」
「Hさんがセミナーに誘ってこなければ・・」
「だったら断ればよかったじゃん・・」
「やっぱり受けなきゃよかったな」

あんた一体誰と喋ってるの?とばかりに、頭の中で続きます。

(幸田先生・Hさん、ごめんなさい!当時はこんな風でした)

後悔、罪悪感、自己嫌悪、怖れ・・デトックス祭!

そして行き着くところは、一言で言えば「誰か(なにか)のせい」。

別にHさんや先生に対して、怒るとかそういう感情はないんです。

むしろ自分を責めていくわけですが、ただそんな責めすら負う覚悟がないので、あくまで外側に理由を作って正当化し、責任転嫁しようとするんですね。



それがいつの間にか、こういう妄想をあまりしていないことにふと気づいたのです。

ちょっと不思議に思い、ここしばらく考えていました。



私はこの初個人セッションの時、先生を前にこれ以上ないほど萎縮していました。

しかも、まるで先生にコテンパにされたみたいな気分になっちゃったんです。

そう感じたのは、あくまで私の心の問題なのですが、当時の私が「だからこそ先生の前に座っているんだ」なんて・・思えっこありません。

そう思えないから、先生の前に座ることになったんでしょうしね^^;

だから被害者意識全開で妄想して、「好きで受けたわけじゃないもん」「Hさんが薦めたから」とか理由をつけ、可哀想な私になることで現実から逃げるんですね。

もともと「嫌われるかもしれない」などからの強い不安から、無意識に自分を嫌う他者、敵を作り出すということをしていた私は、いつでもどこでも被害者でいる必要もあったわけですし。

それと受講中に、「あとからフツフツと考える→分裂していく」

と言われたこともありましたが、この「あとからフツフツ」こそ妄想ですね。

自分が受け入れられないものは、他人がやったことと思い込んだり、相手が悪くて私が正しい(その逆も)とか判断してきたことで、知らず知らず分裂していたのでしょう。


そもそも、なんで起きてきたことを素直に受け入れられないかと言えば、自分が引き起こし、創造したという自覚がまったくなかったからです。

意識的であれ無意識であれ、目の前の現実は自分が発したエネルギーに対して起きてきたこと。

受け入れ難かったり、思いがけない形で起こってきたりもするけれど、自分が創造したこと。

この自覚がなかったために、不都合なことが起きると「なんで私がこんな思いしなくちゃいけないの?」って被害妄想して外側のせいにしがちだったんですね。

露骨にその思いを口にはしないけれど、私にはそういうパターンがあったんです。

夫に「肌は白いが腹は黒い」と言われて、語呂のよさに思わず大笑いしたことがありましたが。

・・・・・・どうやら夫には見抜く力があったようです^^;

顔ではニコニコ、お腹のなかでは何やらフツフツ黒い妄想。

大笑いしている場合ではなかったのでした。

あと受講前の私は、良いことさえも素直に受け入れられず、「本当にいいのかな?私なんか・・」と幸せになることがいけないみたいに罪悪感いっぱいになることもよくありました。

これもある意味、被害妄想ですね。

なんだか残念なことしてたなぁ〜とつくづく思います。


ちなみに、この初個人セッション中、私は先生に何度も何度も言いました。

「なんでここにいるのかわからない。何かに動かされて、座らされている」と。

「他の誰かが望んだことを、私は今やらされている」と、あくまで「何か」のせいにしたかったんですね。

実際は、どこからどう見ても100%、私が選択し行動したことなのに。

自分で申込み、2時間近くかけて自宅からサロンに出向き、途中逃げるでもなく最後までセッションを受けてるんですから。

どの段階でも、やめるという選択はいつでも出来たのですしね。

私を動かし、先生の前に座らせた「何か」は、他の誰でもなく自分自身。

Hさんに悪いからとか・・そういうのが当時の私が自覚できる動機だったとしても、“好きで”受けたことには変わりありません。

まぁ当時の私は受けなきゃ受けないで、Hさんに悪かったんじゃないか・・と、やっぱり自分を責め、妄想して分裂を深めていたんでしょうけど^^;



ここ数ヶ月、あきらかに後からフツフツ考えるような被害妄想は減ったと感じています。

それはI.R.M.をとおして「自分で選択し決める」ことを意識し、「自分が現実を創造している」ということを学んだからじゃないかと思いました。

そして、そんな自覚が小さく芽生えてきてるのかな・・なんて。(そう思いたい〜)

もちろん他の要因もからみあってのことと思いますが、一番これが大きいような気がします。

だって・・自分が決めたって思うと、残念なことに可哀想な私でいたくてもいられないんだもの^^


いつだったか過去のことについて、自分が創造してきてたんだ・・・とハタと思った時、まるでテープを巻き戻すようにいろんなことが思い出され、それらがつながっていくのを感じました。

膨大な選択を自分がしてきた結果として、今の私は存在していたんですね。

「あ〜いつでもちゃんと存在していたんだなぁ・・」とふいに感じた時、なんだか静かな幸せを感じました。

違う選択をしていても、違うどこかで私はちゃんと存在しているんだな・・という安心感も。

当たり前なのかな。

でもその自覚がなかったために、私は長いこといつも不安と怖れの中で生きてきてしまいました。

正直言うと、長年暮らしたその世界は忘れがたいのか・・今でも体半分、ドアの内側に残している感じなんですけどネ^^;

けれど締め切っていたドアを開けられたことは、私にとっては大きな進歩です。

今後は過去だけでなく、未来につながる「今」を、いつでも創造しているのだという自覚をもって、意識的に日々を過ごせるように心掛けたいと思います。


すっかり長くなってしまいました・・

最後までお読みいただきありがとうございました。

まーる

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いつでも満たされている。

こんばんわ。まーるです。 

昼間あんなに晴れていたのに、今、こちらは雨です。

10時ごろ地震があり、おさまったのを見届けてブログを打っていたら、

近くで爆発か!というくらいの突然の大きな落雷。

雨はすでに降っていたようですが、雷とは・・・

夫もめずらしく声をあげ、近所の車の防犯ブザー(?)も一斉に鳴りだすほど。

地震直後だったこともあって、本当にドキドキびっくりしました。

自転車や歩いていた人もいたでしょう・・・外飼いのワンニャン達も。

みんな大丈夫かな?

みなさんの地域では大丈夫でしたか?



宇宙は完璧。


宇宙は完璧というのは、6ヶ月の受講中というよりも、たぶんその前の個人セッションでの言葉だったと思います。

その時の私は、お決まりの「はぁ」という曖昧な感じでした。

他のガイドさん達のブログの中で、時おりこの言葉が出てくると考えてみたりもしましたが、やっぱりわかるようなわからないような。

他人は自分を写す鏡である・・とか創造主であるというのは、受講を通して少しずつ実感を得られているような気はしていました。

でも、この「宇宙は完璧」という感覚がいまひとつわからない・・。

よく、必要なものはすべてある・・というような言葉も聞いたことがありますが、そういう意味のことかな?くらいに思っていました。

そしてしつこいけれど、やっぱりわかるようなわからないような^^;



先日の大地震があった日、歩いて会社から帰る時、今まで当たり前と思っていたことが、次々と感謝の気持ちに変わっていったという記事を書きました。

あの夜、それとは別に、歩きながらふと感じたことがありました。

それは、「“今”自分が必要とするものはすべてある」という感覚です。

会社から我が家までは、遠いと言っても20kmちょっとです。

実は少々甘く考えていたのでした。

“靴”のことを考慮していなかったんですねぇ・・。

私は見事に靴擦れから始まり、腰痛持ちなので腰痛と、足の付け根の痛みにしゃがみこむようになりました。

でもその時すでに10kmという中間地点。

後ろに引き返すことはあり得ないし、もう前に進むしかありません。

いっそのことと、靴を脱ごうとしたら夫に止められてしまうし(今思えば・・夜中の道を靴下1枚で歩くの危ないですよね^^;)、もう無心に、というより半ば茫然とただひたすら足を前に出すことだけに専念し、ヨタヨタ歩いていました。

そんな時です。ふいに「私、歩いてる」と思ったんです。

歩いていることに感謝というのと別に、「今の私に必要なことは歩くことだけだ。ちゃんと歩いているじゃん」と。

私自身はこの時、実は身震いするほど感動したのだけど、文字にすると「だから?」って感じですね〜。

でもあきらかに「すでに満たされている」という感じがしたのです。

愛犬がいるので、あの夜は歩いてでも絶対に帰りたいと思った私。

それには生きているということ、そして歩く足と道路が必要ですね。

当たり前なんだけれど、歩いて帰ると決めたその時の私には・・それだけで充分なのです。

歩きやすい靴や杖がほしいとか・・欲を言ったらきりはないんですけどね。


・・なんて言ったらいいのでしょう。

変な言い方をすると、生きている私が歩くことを決めた時、歩く足と道路がちゃんとそこにあったという感覚でしょうか?

そんな風に思っていたら、感謝と同時に一瞬、不思議と安心感が湧いてきたのです。

「大丈夫。ちゃんと帰れる。」という具合に。


でも、ひとりこっそりそんな感動にひたりながらも、足や腰の痛みは強くなる一方です。

ヨタヨタどころか足が完全に止まってしまうことが増え、心の底から「タクシーに乗って帰りたい」と思いはじめました。

あの夜は、とんでもない大渋滞で「タクシーなんて無理」と最初から諦めていたんですね。

都心を抜けていたこともありいつしか、「タクシーに乗れたらいいのになぁ」から「絶対タクシーで帰る、絶対ひろえる」という、期待に満ちたオーダーに変わっていました。

そしてその後すぐ、ウィンカーを点灯させたタクシーが私の横を通り過ぎました。

お客さんを降車させるために歩道に寄ってきたんですね。

何人もの男性が走り出し、私も走ってみたけれど追いつくわけがありません。

けれど、何メートルか前を歩いていた夫の先で止まったのです。

私が追いついた時、すでに夫はそのタクシーをひろい待っていてくれました。

自分でもちょっと怖いくらいのタイミングで、タクシーに乗れたのです。

いくら「タクシーに乗って、なにがなんでも帰る」と決めたにしても、タクシーという自分の足に換わる手段があの状況で与えられるというのは・・あまりに出来すぎで、偶然といえばそれまでです。

でも起こってくることは自分がオーダーし創造した結果であるということ、そしていつでもちゃんと満たされているというような感覚を実感した出来事でした。

この歩いている時に感じた感覚は、その後もつまんないような小さなことにも多々感じるようになりました。

ご飯を作ろう・・と思った時、やっぱりふと「ちゃんと台所があるんだな、食材もガスもある」思ったのです。

なんて有難いんだろう・・と。

正直今、なに書いてんだろう私・・という思いもあります^^;

うまく言えないのですが、何かをしようと思った時、「今」本当に必要なものはいつでもあるという感じが最近するのです。

そしてまだ曖昧ではあるけれど・・うっすら「宇宙は完璧なんだ」という気持ちになります。

あくまでも「今」だけのことに感じる感覚なんですけどね・・。

逆に言うと、「今」の自分に実現できないことは、思い浮かばないだけなのかもしれませんけどネ。

過去のことを思えば、「もっと●●ならよかったのに・・」、未来なら「もっと●●ならいいのに」と欲がいっぱい出てきてしまい、不満や不安を感じてしまうことありますよね。

でも「今」だけでも、いつでも満たされているというような思いが前提にあると、安心感につながってゆくという実感を少しだけすることが出来ました。

ここ最近、当たり前のことに感謝するということを、深く学ぶにいたりましたが、ただ「有難い」という意味でのことだけでなく、「実はいつでも満たされている」ということにも気づかせていただきました。

まだ何にでもそう思えるわけではありませんが、これからもそういう心持ちで丁寧に暮らしていきたいと思います。





さて、昨年の12月、受講が終了すると同時に卒業生として水曜日の担当をさせていただいておりましたが、今回をもちまして終了することになりました。


私は、I.R.M.に出会い、とても生きやすくなったと実感しています。

まだまだ怒ったり、ボロボロ泣いたり、不安に怯えることはよくあります。

でも、その状態からもっと感情的に陥るようなことも減り、特に他人が絡む場合には、「他人を自分の心の鏡として見る」ことで、とりあえず心を立て直すことが出来るようになってきています。

それ以外にもI.R.Mからはたくさんのことを学ばせて頂きましたが、「受け入れる」ということを少しでも覚えたというのがとても大きいようです。

これからも、I.R.M.で学んだことを礎に、本心に向かって歩いて行こうと思います。


3か月半という短い期間ではありましたが、読んでくださった皆様、
このような学びの場をくださった幸田先生、そしてガイドの皆様、

本当にどうもありがとうございました。



最後までお読みいただきまして、ありがとうございました。

まーる
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ひとつであるという自覚

こんばんわ。まーるです 

先週は、結構心乱れてしまいましたが・・

「こんな時になにやってんだ私!」と何とか奮起し立ち直りました。

そうは言っても・・揺れればやっぱり過剰反応して、夫に叱られる日々です。


さて、我が家付近は計画停電の実施が割と多いのですが・・今日は2度目の夜の停電でした。

雨も降っていたので30分ほどの道のりを、夫と歩いて帰ってきました。
(雨や停電でなければ自転車です)

車が通るせいか、雨とはいえ想像したよりは真っ暗ではありませんでしたが、半分くらい歩いた頃に停電が終わり、街頭がポツポツ順番に灯る様子を見ていたら、やはりホッと安心するものです。

生まれた時から、当たり前だった電気のある生活。

便利というだけでなく、こんなに心の拠りどころにもなっていたんだなぁと実感している今日この頃。

感謝です。



ひとつであるという自覚を持って生きる


セッションの9回〜11回は、コミュニケーションと共感、傾聴など、先生のレクチャーでした。

上記は、いつもうすらぼんやりしている私の心にハッと光るように残り、めずらしく深く考えないではいられない気持ちになった言葉でした。


先生からの質問。「目の前に人が倒れていたらどうしますか?」

私は「助けると思うけど、もしすでに介抱している人がいるなら大丈夫と判断して素通りすると思う」と答えました。

その後、
先生「でもその人が身内や大事な人だったら?」
私「一緒に介抱する」
先生「その人がもし、ちょっと怖い世界のお兄さんだったら?」
私「助けたいと思うけど、怖くて躊躇するかもしれない」
先生「もしその怖いお兄さんが、知り合いの家族とかだったら?」
私「すぐに助けると思う・・」

上記のような会話がありました。

変ですよね。

人がひとり、ケガや病気で倒れている。

なのに、私は相手によってこんなに対応がコロコロ変えるんです。

なぜなら情や縁、価値観があるから。

それで、他人と自分の間に距離や温度差が出てしまうようです。

普段生活している上で、どうしても「情」などの強弱は出てしまうものだとは思いますが、それでも随分無意識に人を差別しているものだな・・と感じたのでした。

その倒れている人の望みが「助けてほしい」ということだと自分が思ったなら、それだけを思えば、救急車を呼ぶなり、手を握るなり何でも出来るはず。

だけど怖そうなお兄さん相手に「この人に関わったら、何か巻き込まれるんじゃないか」とか、不安がよぎってしまうかもしれない。

最初の「助けてほしいに違いない」と自分が思ったことも、まるでなかったことにしてしまいそうです。

私はI.R.Mの5つの法則の中でも「他人を心の鏡として観る」という感覚が強くなるにつれ、「他人は私自身」というふうに感じるようになっていました。

例えが・・ちょっと変でしたが、でもまだまだこんな風に、自分と他人を別々のもととして考え、挙句の果てには自分にとって損か得か・・みたいな判断をしてしまうところがあるのでした。

つまり私は、相手によって平気で見て見ぬふりをするということです・・。

・・お恥ずかしいことです。

他人をないがしろにするということは、自分をないがしろにするようなもの。

他人を救うことは自分をも救うのにも等しい。

「あなたは私、私はあなた」という・・全てはひとつであるという思いがあれば、自分がしてほしいように、相手にもしてあげられるはずなんですよね。

ただその時、じゃぁ自分はどうしたいか、どういう選択をするのかは、同じ状況でも人によってそれぞれ違うと思います。

今回の大震災でも、きっと世界中の人々がひとつの同じ思いをしているような気がします。

「目の前の被災にあった方達を救いたい、支えたい」という思い。

あとは、自分がそこで何が出来るのかという選択があるだけで、それは祈りであったり、募金やボランティア、関東圏であれば節電とか、人それぞれたくさんありますね。

今、ACのコマーシャルで、「心は見えないけれど、心づかいは見える・・」という詩がよく流れますよね。

それを見ていて、最近いろいろ考えていましたが、ひとつであるという自覚そのものはあってもなくても、普遍的に同じ思いを抱くことは、案外自然にしているんじゃないかと思いました。

ただ行動に移せなかったり、私を含め「思っただけ」でその場が過ぎてしまう人が多いだけではないかと。

「ひとつであるという自覚をもつ」だけでなく「ひとつであるという自覚をもって生きる」ことの重要さに気づきました。

自分が目の前の人や出来事に対してどうありたいか、どうしたいかを決めたら、それをいかに行動に移し、現実のことにするか。

ただ、自覚してます・・だけではなく、それをどれだけ自分自身が体験するか、それがとても重要で、そして生きるということなんじゃないかという思いがしています。


最後までお読みいただき、ありがとうございました。

まーる



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当たり前のことに感謝

こんばんわ。まーるです。

先週末の大震災・・津波の映像を見るたびに心がしめつけられます。

まだ救助待ちの方がたくさんいらっしゃるとのこと。

一刻も早く、ひとりでも多くの方が救われますこと、せつに願っております。


被災されました方々にお見舞い申し上げますとともに、

お亡くなりになられた方々のご冥福を心よりお祈り申し上げます。

一日も早い復旧・復興を心からお祈り申し上げます。


原発に関しては、今も、危険な場所で作業して下さっている方たちに感謝しながら、ひたすら祈るばかりです・・。




感謝する

地震の時、私は会社近くの郵便局へ行くために外を歩いていて、大通りの十字路付近の歩道にいました。

揺れがピークの時、向かい側角のビルの窓ガラスが次々割れて道路で砕け散りました。

目の前でそれを見た私たちは、みな一様に頭上を振り返りながら大通りへ移動し一時騒然となりましたが、幸いけが人は出ませんでした。


会社は食器が割れたり、パソコンが倒れるなどしましたが大きな被害もなく、夜には夫と歩いて帰路に。

そして、歩きながらいろいろ思い返していました。


今回、郵便局へ出かけましたが、普段なら方向的に一緒なので「出たついでに」と銀行にも足をのばすことがよくあります。

あの日も実際、会社を出る時に「記帳もしてこよう」思い、わざわざ机に戻ったのでした。

その時、夫からふいに「帰りアイスコーヒー買ってきて」と言われました。

缶コーヒーじゃなくて氷の入ったのが飲みたいからと、銀行とは反対方向にある店で買ってくるように頼んできたのです。

私たち夫婦の間では、よくある光景です。

それで、銀行に行くのが少し面倒になり郵便局だけにしたのでした。

地震の時、大通りの歩行者側の信号は青でした。

銀行に行く時に、青だったら99%は渡る信号です。
(赤なら待たずに違う道筋で次の信号まで歩きます)

もし銀行へ行こうと、いつものように渡っていたら・・結構な確率で、渡ったところにあるガラスがたくさん割れ落ちたビルの下にいたかもしれません。

また、なぜか私がいた方の歩道はたくさんの人でしたが、向かい側の歩道を通る人は少なく(普段はそんなことないのです・・私もしょっちゅう通ります)、そのビルの下周辺には、ひとりも人がいなかったのです!

そして青信号で車が止まっていたので、大通りの真ん中にみんな逃げられた・・

青信号だったから、そのビルの下で信号待ちする人もいなかった・・

改めてそのことを思い返していたら、ただただ感謝の気持ちが沸いていました。

それは、誰も(自分も含め)被害に遭わなくて良かったというだけでなく、その状況に対して「ありがとう」と何かにただ手を合わせずにいられないような感じでした。


また会社は都心ですが、埼玉に住む夫と私、横浜に住む女性、千葉に住む子供を抱えている女性、まったく帰る方向がバラバラです。

でも偶然千葉に住む女性は、自身の病気の検査のため1時ごろに早退し、地元近辺にいたので、保育園へ子供を無事に迎えに行けました。

横浜に住む女性も、なんとか一緒に帰れる親戚の男性と連絡がつき一安心。

そして私には夫がいます

それぞれが安心して帰路につくことができ、その状況にもひたすら感謝の気持ちが沸きました。

そして帰る家があり、歩いて帰れるということ。歩く足と歩ける道路があること。

都心はとても混雑していましたが、みな信号もきちんと守り秩序正しくスムーズなこと。

自動販売機やコンビニがあること。

何気ない当たり前のことすべてが、ただただひたすら有難く感じ、胸がいっぱいになりました。


私は当日、ヒールの高いブーツを履いていて、10kmが見えた頃から疲れはさほどないものの、靴擦れと脚の付け根の痛みで足をひくようになり、座り込んだりもしてしまいました。

ひたすら無心に、少し前を歩く夫の背中だけを目で追いながら、足をただ前に出し続けているだけという状態になりました。

最初は東北のことを思えばこれきし・・・愛犬のために何が何でも帰るんだとか思っていました。

けれどそのうち同時に、それでも私は歩けていること、歩いている「今」に感謝していました。

そして、何だかとても生きていることに感謝の気持ちが湧いていました。

それは不思議な感覚でもありました。

そして10kmを過ぎて、あの大渋滞のなか奇跡的にタクシーを拾うことができ、またまた感謝。

家に着いたら着いたで・・すべてが有難くてしょうがありませんでした。


学びのツボというには程遠く、地震発生時と帰宅時の様子を書いただけになってしまい申し訳ありません。

頭では当たり前のことにほど感謝・・とかわかっていたけれど、これほど深く次から次へと感じたのは初めてだったので。

当たり前・・という考え方が少しでも減ると、不満も減るというのも今実感しています。

あと一瞬一瞬がとても大切に思えるようになってきました。


逆にはっきりしたのは、自分の不動心のなさでした。

今でもなにかと、オロオロして心中穏やかでいられなくなってしまいます。

1日中ドキドキしている状態です。こうやって打っている今もです。

出来ることはしたいと節電に励んで、寄付してみたところで、私の心がこんなではいけませんね。

今、深いところでつながって世界中がひとつになろうとしている感じがする時でもあるというのに。

なんでこんななのか、こんな時こそ自己観察。

このことは、ちゃんと考えてみようと思います。


最後までお読みいただきまして、ありがとうございました。

まーる

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自分をコントロールできたなら・・

こんばんわ。まーるです。 

雪が降ったり、ぽかぽかしたり・・いかにも春を迎える前振りのようなこの感じ。

私は春というと、お正月よりも何か強い「始まり」を感じるんです。

季節はただめぐっているだけなんですけど・・。

何か新しいことの始まりの前にも、こんな風にいろんな思いが交錯するものですよね。

見えない先への不安な気持ちと、ワクワクする気持ちと。

初めて、セミナーに参加し先生にお会いしたのも昨年の今頃でした。

I.R.M.の受講のときは、ワクワクより不安の方が大きかったっけなぁ〜と懐かしくなるのと同時にふと思います。
本当の意味で、私にとって一体なんの「始まり」だったのかなぁって



決めたことを決めた通り出来るようになることで、
宇宙のシステム(秩序)を作る。
制約束縛の多い中からいかに自由を見出せるか。
秩序だった世界ほど、自由度は増す。


決めたことがなかなか出来ないことに対して、2回目のセッションで言われた言葉です。

ここ数回のブログを打つうちに、感情のコントロールという・・想いが何度か出てきて、気になっていました。

感情のコントロールを思う時、怒るのを抑えるというような感じでいましたが、それではコントロール出来なかった結果をどうにかしようとしているのに過ぎませんね。

だからどちらかというと、最初から極力怒らないようになるということが大事なんじゃないかと思います。

そして考えを巡らすうち、それには自分そのものをコントロール出来るようにすることが重要であるような気がしました。


例えば・・・メタボ気味の私は体重管理が必要と思っています。

けれど、例えば油っぽいものは控えようと揚げ物は避けても、背脂チャッチャッなラーメンなんかをつい食べてしまいます。

一見、揚げ物は抑制していそうだけど、実はそれほど好きじゃないだけ。

ラーメンは好きなので、結局、私はなんの抑制も自分に課していないのです。

食べながら「あ〜、また食べちゃってるし・・」とちょっと思います。

自分にとって良くないってことはわかっているんですね。

挙句の果てには「〇〇が食べようって言ったから・・」「他に食べに行くとこないしね」なんて、こっそり人や環境のせいにして、自分の甘さを正当化してしまいます。

少なくとも今の私には和食が好ましく、いかにも油っぽい料理は控えたほうがよいということはわかっているのです。

でもそれがなかなか守れない。

そしてご褒美程度ならまだしも、日常的にラーメンやイタリアンなど外食するので、たまに自己嫌悪や罪悪感を感じてしまいます。

自分自身に。自分で自分にゴメンネ・・・っていう感じです。

こんなところからも自分を大事にしていない様子が見えてきますね・・。


それと、「まぁ〜いいか」と甘くしてみたところで、食事に限らず、決めたことが守れないこと、悪い習慣など、自分にとって改めるべきことがわかっているだけに、他人の中に、その自分に甘くだらしない部分が見えるとイラッとします。

例えば私は「なんでちゃんと起きないの?」「今日中にやるって言ってたじゃん・・」などなど、つい夫に小言を言ってしまいます。

でも全部、「お前もだろ」と言われてもおかしくないことばかり。

しかも、相手にはそれをやるのは当たり前だと、守らせようとしてしまうんです。

始末が悪い。「自分に甘くて他人に厳しい」というやつですね。


・・依存。ここでも私は誰かの世界のはしっこで生きているみたいです。

自分がどうあるべきとかと考えるだけであまり実践せず、あわよくば他人に実現してもらい、その中で生きようとしているんですね。

でもそんなの当然、思い通りになるわけもないし何の意味もありません。

結局自分に全部跳ね返ってきます。

そりゃそうですよね。自分が自分のために考えたことなのですから。

でも依存しているから「〜のせいで出来なかった」とか「もっと〜だったら出来たのに」とか外側に原因を作り上げては言い訳し、同じことを繰り返します。

心の中では、そんな風に適当にごまかす自分をチクチク責めていたりもします。

過去の経験云々だけでなく、こんなところでも自己嫌悪を繰り返し、自己否定に拍車をかけてしまっていたんですね。

すべての原因は私の中。心が弱い。

依存しているがゆえに甘えた考え方が強いということです。


以前、他人によって自分の価値があったりなかったりしてしまう、というようなことを書きました。

それと同じですね。

自分の考えたことが実践できず、自分の思いにすら責任をもたずに外側に求めてしまう。

今どうあるべきか、どうしたいか・・とせっかく考えた、大事な自分のための思い。

そんな思いすら、他人や環境によって簡単にあったりなかったり、下手したら完全になかったことのようにしてしまうんですね。

私は長いこと、自分が生きているんだかいないんだか、それがよくわからない不安を感じがちでした。

でもこれじゃぁ・・生きている実感なんか得られっこないですよね。


もし、私が自分に厳しく秩序だった行動が出来る人間であったなら、他人の姿も完璧なものととして映るわけで、心が揺れることもないはずです。

人を責める必要はもちろん、自己嫌悪や罪悪感も感じたりすることもないでしょう。

他人に求める必要だってなくなるでしょうね。

なぜなら私の「こうしよう」とか「こうでありたい」という思いは、すべて自分で実現できるのですから。

これほどの自由があるだろうか・・と思いました。

そしてそれによって私は自分の存在意義を、また生きていることを実感できる・・はず。
(もし私が・・という話なので、言い切れないんです・・)


私が他人に「あーしろ、こーしろ」と言うことは無意味なんですね。

まず自分が自分のことをきちんと出来るようになること。

子供のしつけや教育現場ではまた違うかもしれませんが、本来、自分があれこれ指図出来るのは自分自身にだけなのだと思います。

自分の思い通りに、良くも悪くもどうにでも出来る唯一の存在。

それは自分自身だけなんですね。

その唯一の私という存在の意義を感じられるような生き方ができること、それが自由なんじゃないかなという気がしました。


自分という乗り物(?)のハンドルを・・馬なら手綱とか・・それらを握るのは、他の誰でもない自分自身。

その自覚を強く持ち、時間や生活習慣、体のこと、そういう自分のすべてを自分でコントロール出来るようにすることが大事なんだと思います。

そうすることで、いつでもやりたいことをやり、行きたいところへ行き、なりたい自分になれる道を見つけられるようになれそうな気もします。

それにはやはり、まず自分が決めた事をきちんと出来るようにするということですね。

早寝早起き、運動等の生活習慣に趣味。

もちろん、何か資格とか仕事に関することとか。

そういう大小いろいろの、自分の内からあふれ出た思いや、良かれと思って決めた事をきちんと実践することは、甘えた考え方を手放し、心を強くもしてくれそうです。

さんざん自分を甘やかしてきた分、かなりの抑制を感じるでしょうし、しんどいこともあると思います。

ここでいつも簡単にギブアップしていたわけですが・・^^;


まずは、長年思うだけで全然やってこなかったいろいろなこと、最後までやり遂げられなかった決め事の数々を見直し、ひとつでも多く行動に移していこうと思います。

そうやって自分で自分をコントロールしていけるようになれば、創造主という概念をもっと実感できそうな気もするし、私が憧れる「穏やかで静か」な心と日々に近づいていけそうな気がしました。


最後までお読みいただき、ありがとうございました。

まーる

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変化を受け入れるということ。

こんばんわ、まーるです。

先週末、修善寺に行ってきました。

ポカポカ暖かく、梅も咲き誇るなか、春をまじかに感じることが出来ました。

今週は、先週の春一番が嘘のように冷え込みますね。

それでも春はもう目の前。

何だか空も、桜の木もそわそわしているような。
(それは、私がそわそわしているってことかな?)

どうしてこんなに嬉しいのでしょう。春が来るってだけなのに・・^^



会うもの、存在しているもの全てが愛「会い」である。
愛はすでにあるもの。するとかしないとかではない。
あえて言うなら「情」をかけるか、かけないか。
そしてその「情」をかけた相手が自分の思いのままでなかった時にデトックスとなる。
それは変化を認められないから。
宇宙は常に変化するもの。
変化を認めないということは、存在すら認めていないということになる。


愛が大事だとわかっていても、「じゃぁ・・愛ってなぁ〜に?」と訊かれたら、正直答えられません。

だけど心のどこかでは、愛の普遍的な感じや大切さはわかります。

でも言葉に出来ないから、やっぱりわかるようなわからないような・・^^;


セッションで愛についてのお話になって、上記の言葉を聴いた時には心が震えるように感動したのを覚えています。

それで具体的に何かがわかったわけではないけれど、何かを思い出す取っ掛かりのような糸口を見つけた気分になったのでした。


どんな出会いもきっと多生の縁があってのこと。

かと言って、出会いのすべてが愛だと知っても、なかなか同じように接することって出来ません。

何となく気の合う人とそれほどではない人、一緒に過ごした時間の長い人とそうでない人等・・

好き嫌いではなく、情のかけ具合が自然と違ってきちゃいますよね。

親子や夫婦、恋人や友人関係とか、近くなればなるほど情が深まることも極々自然なことだと思います。

そしてその分、亡くなるとか別れるとか、失うのはとても悲しいものです。

私はこの手の「悲しい」という感情もデトックスになるのかな・・と思いましたが、先生はこういうことでの悲しみ自体は自然なことで、そういうことではないと仰いました。

ただ「なんでこうなるのよ」みたいな、自分の思い通りじゃなかったということへの反応であれば、それはデトックスになるとのことでした。


別れとは違いますが、私には長いこと怒りのもととなる人がいました。

今思うと、それは私がその人の心の変化を認められなかったからというのもあると思います。

「〜であるはず」という思い込んでいたことが、実際にそうだったことが変わってしまった。

そして、その人のゆらゆら揺れる心の変化を真っ向から受けることも、私は受け入れられませんでした。

今なら、鏡として・・とか創造主であると思うことで、ググッと感情の方向をほんの少しは変えることが出来るかもしれません。

けれど当時の私は、その人を愛し慕う気持ちを自覚している分、自分の思いのままにならないその人、その状況に悲しみをとおり越え怒りや絶望感を覚えるようになってしまったのでした。

「私はこんなに好きなのにどうして?なんで?」って感じですね。


でも、「こんなに好き」もなにも、実際はその人も、その人自身の心、宇宙の意に則ってただそこに存在しているだけなんですよね。

そこにあれこれ自分の感情と照らし合わせて、違えば怒ったり悲しんだり、ぴったり合えば喜んで。

相手が変化しているというよりも、自分の心が勝手に右往左往していただけかもしれません。


また、全く違うけれどお天気もそうかな〜とふと思いました。

旅行の予定があれば、やっぱり晴れた方が嬉しい。

雨だと「うわぁ〜雨だよ〜」と何だか損した気分。

だけど花粉症の私は、今のこの時期に雨が降るとちょっと嬉しい。

ほんと勝手なものです。

農作業に携わっている人にも、恵みの雨にも雨害にもなったりしますよね。

けれど雨は自然の摂理に則って降っているだけ。

雨が降っているというだけで、それ自体にそれ以上の意味はありません。

そこにその時の自分の心や環境などによって、それにアレコレ意味がついて一喜一憂しているだけなんですね。

逆に、それがなかったら生きている感じがしないですけどネ。


愛とはちょっと離れてしまいましたが・・

天気でも、目の前に広がる海や山が穏やかだろうが、荒れ狂おうが、それをどう感じるかはそれを経験する側の受け取り方の問題。

自然はそういうものだと自然に受け入れているように、人であっても相手がどのように変化しても認めること、すでにそこにある完璧な存在として受け入れること、何かそういう全体的なことを愛というのかな・・と思いました。

それに外の存在を認めて初めて、自分も存在できるんですものね♪


最後までお読みいただき、ありがとうございました。

まーる
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愛ゆえの無情

おはようございます。

まーるです。

先週の冷たい雪や雨の日々から一転、今週は過ごしやすいですね。

春が来るのは嬉しいけれど、花粉症なので涙涙の季節でもあります

マスクが手放せない方も、そうじゃない方も、これからしばらくは三寒四温、
体調くずさないように気をつけてくださいね。



相手を思えばこそ、無情になることが必要。


無情というと、イメージとして冷たいとか情け容赦ないような、そんなイメージがあったので、この言葉が本当の意味での優しさにつがなることが新鮮に感じました。


I.R.Mでいう無情について思う時、私がよく思い出すのは医療です。


遠い昔、健康診断を請け負うところでアルバイトをしていました。

当然、看護士やレントゲン技師、検査技師に栄養士というような人ばかりの職場でした。

いろんな現場の話を聞く機会がありましたが、そのなかで看護士さんのひとりが、処置するにあたって痛みの想像ができる時は気持ちとして辛いというようなことを言っていました。

手術の話を聞き、健康診断先で、淡々と採血のために注射針を腕に刺している様子を見ていて、そういうのにはすっかり慣れていると思っていたので意外な感じもしたのでした。

患者が痛みに悲鳴をあげようが、何しようが押さえ込んででもしなくてはならない時もあるわけで、やっぱり辛い時もあるとのこと。

仕事と言えばそれまでなんですけどね。

実際、話してくれた方達も最後は「好きでやってる仕事だし、可哀想とか言っていられない」と言っていました。

その時は「さすがだな」「強いんだな」とか思っただけですが、今思えばこれも無情になれるからこそですよね。

痛いよね、可哀想に・・なんて治療の手を止めてしまったら、困るのは痛がっている患者自身なのですから。

私は患者の立場にしかなれませんが・・それは困りますっ^^;

この例は仕事なので、またちょっと割り切り感が違うかもしれませんが、相手を想えばこそ自分の感情を無にすること、仕事であれば、その目的に立ち返ることが大切なんですよね。


仕事以外では、自分のことではないけれど、とても愛ゆえの無情を感じていることがあります。

今の職場には中国人の女の子がいますが、日本に来た時、身を寄せた親戚の方から「ネットも本も音楽も含めすべての中国語禁止」とされ、それ以外の生活面でもそれは厳しくされたそうです。

日本語学校行ってるんだから、家でぐらいは中国語もいいじゃないか・・と言ってしまうのは簡単です。

彼女を異国の地で預かるという責任もあったと思いますが、彼女を思えばこその無情、厳しさですね。

1日でも早く日本語を覚えるように、一人でも日本で生活できるように・・と。

また、大学を終え中国に帰りたいと言った彼女に日本での就職をすすめたのもその親戚の方です。
(そして巡りめぐってうちの職場に来たのでした。)

心配と寂しさの中、高額なお金を投じて日本に送り出してくれた両親のためにも、日本で社会人としても働いてもっと学び、留学の成果を形にして帰りなさいと。

日常生活を干渉することはないようですが、うちに就職し一人暮らしを始めた今でもまだまだ厳しいとのことです。

彼女は面白おかしく話すけれど、話を聞くたびに、心底その親戚の方達が彼女を愛し大切に思っているかわかり、私もとても幸せな気分になり感動します。

そして彼女も「両親より怖い〜」と言いながら、とても深く信頼を寄せ感謝していることが、とても伝わってきます。

私はつい、このくらいなら・・と優しさのつもりで甘くしてしまうこともありますが、それは心苦しくなるのがイヤとか自分可愛さのため・・結局自分のためでしかない場合もあります。

真の優しさには、自分をコントロールする強さも必要なんですね。

むやみに情に流されず、少しでもニュートラルな状態でいられるようにすること、感情のコントロールの大切さを改めて感じています。



最後までお読みいただき、ありがとうございました。

まーる
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他人からのエネルギーも自分が発したもの。

こんばんわ!まーるです。 

先日、帰りの電車でひまつぶしがてら「そのうち」行くために、地元で何かいいお店ないかなぁ〜と夫と携帯で検索していました。

たくさんヒットした中から「今からここ行ってみよう!」と、夫の直感で急遽途中下車して行ったイタリアンの店の名前が「マール」でした♪

何語なのか・・ローマ字で書いてあって読めなかったんですけどね。

偶然、店名が一緒だったというだけのことですが・・夫が選んだだけに何だか不思議な、ちょっと嬉しい出来事でした。


まずは自分ではあるけれど、他人の言うこと、他人からくるエネルギーを自分の発したものとして受け入れるとよい。
他人からだけでなく、自分の内からくる思いも抑制しないこと。
修行としてハイ「覇意」と素直な心で受け入れる。
それは自分の本心に報いることになる。

7回目の頃、私は決めごとや物事を自分で能動的にコントロールするようになって、他人をそこに感じることなく、少し自由を感じている・・という旨をお話したときに、教えていただきました。

でもなかなかこの「ハイ」の一言が言えないんですね。

他人に合わせる習慣がある私にとって、案外簡単そうにも思えました。

でもいざ意識してみると、小さなことから大きなことまで「あームリムリ」とか「まぁいいや・・」「ないない」と真っ向から拒絶していることの多いこと。


今思うとI.R.Mの受講を決めるまでもそうでした。


私がI.R.Mを知ったのは、現在エキスパートガイドをしている方が昔の職場の同僚だったご縁からです。

でも彼女とは滅多に会うこともなく、15年位ほぼ年賀状のやりとりだけでした。

そして一昨年来た年賀状に、セミナーの案内が書いてあったのです。

でもその時は「すごいなぁ」と思っただけで、興味は湧かなかったんですね。

その年の暮れ、翌年の年賀状を作成するのに見返していて、ふいに「何やってんだろう?」と気になったんです。

この“ふいに”思った時、たまたまパソコンの前にいたのでHPを見ました。

もしそうじゃなければ、私のことだから「まぁいいや、そのうち」とそのままにしていたことでしょう^^;

そして何気なく最初に読んだ学びのつぼのブログが、彼女のだとわかると嬉しくなり、むしょうに沸き起こるように連絡をとりたくなったのです。

しかもなぜだか「手紙を書かなくちゃ」と、とってもアナログな手段。

先のばしにしてはそのままにするクセがある私がめずらしく、年明けにはちゃんと書いたけれど、すぐに投函出来ず1週間位バッグに入れたまま。

突然の手紙で迷惑じゃないだろうか、変に思うんじゃないだろうか・・

そんな自己否定から来る不安がムクムク湧いてきたからです。

しかしとうとう、帰りがけ会社の郵便をだす時、これまた“ふいに”「ええぃ出しちゃえ」と思い、ポストに入れたのでした。

小さいことだけれど、ここまでは時間をかけつつ自分の内から沸き起こる気持ちに従って行動しています。

その後すぐ彼女と会い、近況を報告しあって楽しくお喋りするだけのつもりが、私はウジウジと心情など語っていました。

彼女は私が自分自身を全く大事にしていないと指摘し、手紙を書いたのも魂の導きだし、本心を知る「準備」も出来ているようだと言いました。

落ち込みつつも「そういうこともあるかな」とは思ったけれど、かと言って「それじゃあいっちょ、やってみるか」などと当時の私が思うわけがありません。

彼女は個人セッションのお膳立てもしてくれましたが、「あ〜ムリムリ」と断り、彼女の優しい言葉に私は逆に静かに心を閉じたようになってしまいました。

結局、その後セミナーと幸縁会に1回参加し、個人セッションも2回受け、自分の内からくるもの、他人からくるもの・・たくさんの「はい」と「ムリムリ」を繰り返し、初めてHPを見てから、受講を決めるまで6ヶ月を要してしまいました。



けれど、そもそも”ふいに”思ったり、その沸き起こる気持ちを行動に移したのは私なんですよね。

それにI.R.M.の話をするだろうってことも予想した上で会ったわけです。

彼女は私の発しているエネルギーを受け、形を変えて私に言葉や行動で示してくれていたんですね。
(この場を借りて、ありがとう^^)

私の魂が望んだ通りに、ことが進んでいただけなのですが、私は恐れと猜疑心から拒絶してしまったのです。

私はただ楽しくお喋りしたかった。

でも起こってきたのは、本心を知ること・・自分と向きあいなさいというお触れ(←表現が古い^^;)。

自分が望んだという自覚がないから、起こってきたことが受け入れられずに葛藤してしまったんですね。

自分自身と向きあおうとしている私と、それを拒絶する私が。

そして遠ざけようとすればするほど、自分自身と向き合おうとする私が近づいてきて、逆に気になってしょうがなくなるんですね。



私が発した「こうだったらいいなぁ」という思いに、「こうしたら?」と答えてくれた。

それを「え〜やだなぁ」といくら拒絶しても、私が発し続けている限り「じゃあこれは?」「こんなのどう?」と、受け入れるまで、私の中の宇宙は提案し続けてくれているのです。

望むかぎり起こってくる。ただひたすら幸せになるために。

自分で起しているという方がしっくり来るような気もします。

起こってきたことが、自分が望み創造したことだと受け入れられれば、ギャップも生まれないし葛藤することもないんですよね。


そして、他人は心の鏡、他人は自分自身。

他人の口から出る言葉や行動が、自分の本心の発したものなのだとすれば、「はい」とそれを素直に受け入れることは、本心を、自分を受け入れることにもなるんですね。

ただこの他人から来るエネルギーに素直に「はい」って受け入れるのが、なかなか難しいんです。

つい拒絶したり尻込みしてしまいます。

でもそれも私。受け入れるよりほかありません^^;



考えようによっては、他人を通して自分の本心を五感で感じられるなんて、本当に素晴らしいことですよね。

本心からのサインを一つでも多く「はい=覇意」と素直な心で受け入れられるよう、今後も心がけようと思います。


最後までお読みくださり、どうもありがとうございました。

まーる
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言葉でのご親切

こんばんわ。まーるです。

なんだかんだ言っても空が春だよねーなんて、つい先日話していたのに
今夜は打って変わって、シトシト冷たいみぞれ雨。

お湿りは嬉しいけれど、気温の変化がとても激しい時ですので、

みなさん、どうぞくれぐれもお体ご自愛ください。



他人を心の鏡として観る。

「親切」で他人という鏡を磨く。

 
先日、夫を自分の心の鏡として捉えることで経験したことを書きました。

自分の言葉のきつさなど思い浮かべながら、思い出していた言葉がありました。それは、


「私の口から出る言葉はすべて贈り物でありたい」


良寛和尚さんの言葉です。

人を温かな優しい気持ちにさせる言葉、勇気づける言葉など・・いつでも相手が幸せになるような言葉を贈り物として差し上げたい・・

というようなことだったと思います。

随分前になにかで読んでとても感動し、そこだけ覚えているのですが、解釈としては他人に対しての思いやりであるとか、人を傷つける言葉は良くないとか・・そんな風に捉えていたと思います。

普段の言葉遣いに対する戒めのような感じですね。


でも他人を心の鏡として、また自分自身として観ると、他人に向けて出た言葉はすべて、同時に自分自身にも向けているということ。

優しく癒すような言葉であれば、他人のみならず自分自身も癒すことになるということですね。

逆に攻撃的な言葉で他人を責めれば、自分も同時に責めていることに。

そして、きつい言葉で相手を責める・・他人という鏡に映るそんな私はどれだけ醜いことでしょう。

そんな風に私を映す鏡を磨くには、やはり「ご親切」。

もう何度も何度もセッションで言われましたし、頭ではわかっています。

いわゆる道徳的な席や道を譲るとか、手を貸すとか・・また仕事上のことでも普通にやっていたつもりだけれど、それは誰でもやることであってもっと何か違うこと・・と妙に構えてしまっていました。


でも先週の記事を書きながら上記の一文と、「言葉」が癒しにも凶器にもなるということを今更ながら思い出しました。

口から出る言葉であれ文字であれ、毎日なにげなく使っている言葉。

それらがすべて贈り物であったなら、どんなに素晴らしいでしょう。

そして、これも立派な「ご親切」じゃないかなと思いました。

しかも・・自分自身への贈り物にもなるのです。素敵ですよね♪


人を温かい幸せな気持ちにさせる優しい言葉を。

私が相手だったなら・・・と、そんな風に相手の立場になって言葉を選びたい。


振り返ってみると近しい人に程、無頓着に傷つける言葉も使っています。

心を許している分、つい感情を出してしまって・・。

それに感情的になっている時は、相手のことを思う余裕がなくなってしまいます。

そんな私の口から出る言葉は、まるで見えない刃物を振りかざしているよう。


だけど感情的になって人を傷つける言葉を言ってしまうなら、相手の立場に立って温かい言葉を日常的に選ぶことで、感情をコントロールできそうな気もします。


自分の口から出る言葉を、命を扱うように大事に丁寧に。

たったそれだけのこと。

なのに、それだけのことがなかなか難しい。ここ数日、実感しています。

また贈り物云々に関わらず命と思えば、そこに責任も感じずにはいられません。

命とまで言ったら大げさでしょうか・・・・?

でも私の場合、そのくらい重く言葉を扱ってもいいような気がしています。

今後少しずつでもいいから、自分の口から出る何気ない言葉に優しさがこめられるよう、相手の立場にたって言葉を選ぶよう心がけていきたいと思います。


最後までお読みいただいて、ありがとうございました。

まーる








































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ケンカは自分の心を知るチャンス?

こんばんわ、まーるです。

乾燥がすごいですね〜。

でもそのおかげで、野菜を干したり、干し芋(安納いいですよ〜)を作ったり、美味しい思いもしている今日この頃です。

とは言え体にはこたえますね。インフルエンザも相当流行っているようで。

みなさんもどうぞお体ご自愛くださいネ。



他人を心の「鏡」として観る

許すというのは認め受け入れた先にあるもの

6,7回目のセッションの頃から、私はこの「他人を心の鏡として観る」というのを強く意識し始め、いつしか「他人=私自身」というふうに感じるようになりました。

当時の自己観察で、私は怒るのは悪いことと思っているということは、本当は怒りたいのかも・・のようなことが書いてあります。


そのことで、夫とのケンカからちょっとした体験があり考えてみました。


イジメも含めて、一方的に怒られるようなそういうことが子供の頃にありました。

怒られるのですから、私が悪いと自分を責めていたような気がします。

だからか、ちょっとした他人の素振りに「怒っているんじゃないか・・」と反応してしまう時があります。

例えば相手が急に黙ったりしたら「なんか怒ってる?」と不安になるんですね。

そして私の場合、そういう不安な気持ちはある感情へつながります。

「なんで急に黙ってんの?言いたいことがあれば言えばいいじゃん・・」と、ほとんど言いがかり・・被害妄想全開でイライラしてきます。

そう、怒りです。苛立ってくるのです。

相手が実際には何も思っていないこともわかっているし、怒ることに罪悪感があるから、実際には口にしませんが、夫のように近しい人にはつい甘えて・・イライラをぶつけてゆきます。

そして相手がとうとう怒り出します(怒らせてるんですけどね)。

こう書いていると、なんなんだ?と、我ながら少しひいてしまいますが・・
こういう状況になってしまうことが時々あります。


鏡として客観的に見ると、私はなにか怒っているということがわかります。

わざわざ他人(99%は夫ですが^^;)を怒らせてまで、何に?

他人=私自身ということは、私が怒りを向けている相手は、他人という鏡に写った自分自身であるということです。

「黙ってないで言いたいことがあるなら言えばいいじゃない!」と、私は私自身にイライラと怒っているということになります。

私には何か「言いたいこと」もあるんですね。

けれど、いざ「言いたいことを言っている」様子を目の前で見せられると許せない気持ちになります。

私は長いこと、自分が悪いと責めながら、「もうやだ!ふざけるな!」的な怒りの感情も静かに抱えていました。

でも言いたいけれどそれは出来ないので、心の中でぶちまけていたのでした。

でもいろんな理由から、怒ったり、そういうことをする自分が許せなかった・・。

だからそういう許さなかった自分の姿を、目の当たりにするのはイヤなんだと思います。


受講中、この怒りのもとに対しての自己観察をして、その相手に対してわりと素直に許そうという気持ちになり終わりにしていました。

でもしばらくして、何だかとても許したいという気持ちが沸いてきて、セッションでお尋ねしたのです。

許したい気持ちを満たすのは良いけれど、そう思うということは、まだ許していない、許したいことが自分自身の中にある。
本当は何を許したいのか?
自分の中のものを許したら、他人や外のものを許そうと思わなくなる。
許すにはまず認めること。許すというのは受け入れ認めた先にあるもの。

と先生は仰いました。

子供の頃のことだろうな・・と思いましたが、
頑固というか・・私は相手を許そうと思っているんだし、実際そんなに怒っているという意識もなく、その時は何となく見て見ぬふりをしてしまいました。


それが先月、上記のように私が夫を怒らす形で始まったケンカ中 「なんでいつもわざわざ怒らせんだよ?どうしたいんだよ?」と言われて、何だかいやに心にひっかかったのです。

いつもなら「怒らせてんのはどっちよ」ってなるところなんですけどね。

この時は不思議と「エッ?・・どうしたい?」と考えながら、夫が言っている「言いたいこと」に耳を傾けていました。

その言葉の大半は、私が心の中でその相手に投げつけていたことばかり。

まるで、夫の口を借りて昔の私が一生懸命に訴えているようでした。

それに気づいた時、夫を抱きしめたい気持ちになったほどです。
(夫というと・・変ですね、鏡という観点での私という意味ですよ!)

私がとらえたその訴える感じはとても切なく、心の中で「うんそうだね・・もうわかったから。もういいから」と繰り返しました。

たぶん私が怒る自分自身を受け入れた瞬間じゃないかな・・と思います。

もうずっと夫は、私の不安から来るイライラをいつも受け止め、私の言葉と怒りを表現してくれていたのでした。

何度も何度も・・。なのに今までちっとも気づくことが出来ませんでした。

今さらながら夫には感謝の気持ちでいっぱいです。

「気づくのおせーんだよ」という声が聞こえてきそうです^^;


「なんか怒ってる?」って、やたら不安になったのは、私自身が潜在的に怒っていたからなんですね。

ふいに黙ってしまうのも、心を閉じた私の姿。

私は怒りのもとである相手を許すことばかりに気を取られていたけれど、今回、自分の中の怒りを受け入れたら、先生のおっしゃる通り、もうその相手を許すとか許さないとかあまり考えなくなりました。

受け入れることの素晴らしさを改めて気づかせていただきました。


今回の夫とのケンカは、ちょっとは言い返しながらも(←ここが素直じゃないですね)頑張って聴くようにしました。

怒りの件以外も、夫の口から出る言葉には、意識的に考えないようにしていたことや、ひとり心の中で自問自答していたようなこと・・そういうものもありました。

そして私が夫に負けじと言い返す「あなただって・・」の先も、後から考えると、結局自分にもあてはまることばかり愕然としました。

他人を鏡として、「他人=私自身」として意識して接すると、目に、耳にしたくないようなことを見たり聞いたりすることになるのかもしれませんね。

ケンカは出来ればしたくないけれど・・

自分の心の状態や本音を知るために起きていると思えば・・カチンッと反応することなく、ちょっとは冷静に対応出来るんじゃないかなと思います。


それにしても、あんなに目の前に自分自身を感じたのは初めてのことでした。

心の鏡として観たというより、私自身と問答しているようで不思議な感じでした。

不思議な感じと言えば、夫が私にあれこれ言っている時、私は自分の心の声と思って聞いていたけれど、それと同時に夫も夫自身に今言っているんだな・・と、所々で感じたことです。

私という鏡にうつる夫だけが見るその姿は、私の目にうつる夫の姿と同じなのかな・・。

そんなことも少し思った体験でした。




最後までお読みいただき、ありがとうございました。

まーる























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